大川家具のおこり
伝統と技術が集積された大川の家具の歴史
– その起源は約480年前にまでさかのぼることができる –
「いいものには歴史あり。」
その歴史の扉を開け、理解すれば、もっと大川の家具が好きになれる。
室町時代後期 |
大川家具の開祖、榎津久米之介が船大工の技術を生かして、天文5年(1536年)指物(さしもの)を始める。これが「榎津指物」の起こりとされているが、家具が主流になるにはまだ時を要する。
榎津久米之介師像
木工の祖、榎津久米之介 室町幕府十二代将軍・足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として生まれた榎津久米之介。大川市榎津本町の願蓮寺に今も残る古文書によると、彼は兄の戦死後、天文4年(1535年)出家。翌、天文5年(1536年)一寺を建立し、「願蓮寺」と名づけた。 久米之介は、家臣の生活のために、そのころ盛んだった船大工の技術を生かし、指物(家具)を作らせました。これが「榎津指物」の起こりとされています。 彼は天正10年(1582年)8月10日、96才で死去。その後、家臣は工商をなし、榎津久米之介の精神を受けついでいきました。
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江戸時代後期 |
中興の祖、田ノ上嘉作 は文化9年(1812年)榎津長町に生まれ、久留米の細工人に弟子入りし箱物の製作を修得して帰郷。これが榎津指物のはじまりと言われている。
榎津箱物(四代嘉作製作)
中興の祖 田ノ上嘉作 文化9年(1812年)榎津長町に生まれた田ノ上嘉作は、家大工の傍ら建具製作に携わっていました。大阪で指物の修行した優秀な細工人が久留米にいると聞 き、すぐに弟子入り。箱物(物を入れる箱の家具類)の製作を修得して榎津に戻り、これが榎津箱物のはじまりと言われています。 その後榎津箱物は、息子儀助、さらにその息子小平次に受け継がれ、さらなる発展を遂げます。
大川指物とは・・・ 「大川指物」とは釘を使わず、板と棒、棒と棒を使い、木に穴や切りこみを入れ、差し合わせて組み合わせたタンス、箱物、机のこと。
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産地の形成
伝統と技術が集積された大川の家具
明治10年頃 |
榎津箪笥が生まれる。
榎津箪笥 大川独特のデザイン、機能を持った衣裳箪笥が生まれたのは明治10年頃。非常に大型で、材質は杉・桐・欅を使い、素木・透漆・黒塗などで仕上げられている のが特徴です。また、箪笥の金具には鉄・銅・真鍮などを使い、薄いタガネによる細かな透彫りを施すという手法も大川独特のものでした。当時、ひとつの箪笥 が完成するには、 1.木挽きによる製材 2.金具製造 3.塗装技術 4.木工職 という4つの高度な技術をもった異業種の職人による技術が必要で、その4つの技術の粋を集めた作品が「榎津箪笥」だったのです。
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明治22年頃 |
大川木工の発展のきっかけ 今から約100年ほど前の明治22年(1889)、町村合併によって大川町が誕生し、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。この発展の 原因には、塗装方法や木工機械の進歩などの技術の発展のほかに、材料の木材が確保できたことと、家具製品の販売先が広がったことがあげられます。 |
明治42年 (1909年) |
大川指物同業組合が結成される。
明治時代の大川の木工業 明治時代になると、最新の技術が導入され、新しい意匠を加えた精巧な家具が生産されるようになり、大川の町も“家具産地の町”として全国にその名を知られるまでになりました。
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明治44年 (1911年) |
同業組合立「大川工業講習所」が開設される。 |
大正元年 (1912年) |
大川鉄道が敷設され、販路が拡大される。
大正時代の大川の木工業 大正に入り、第1次世界大戦時およびその直後は、大川の木工業もその例にもれず、好景気の波が押し寄せました。しかし、大正9年にもなると戦後の恐慌が 押し寄せ、日が経つごとに不況の度を増していきます。しかし、こんな状況下、大川の業者はさらなる努力を重ね、品質の向上に努め、不況の打破を試みます。 このため、業者数、従業員数、生産高ともに好調な成長を続けました。またこの頃、組合では各地で開催される博覧会・共進会・品評会に「大川の指物の真価を 周知させ、販路を拡張する」という目的で、主な業者の代表的な作品の出品を積極的に進め、大川の家具の宣伝に尽力。その結果、近隣市町村に販路が広がると いう成果を挙げました。
需要の増大による機械化。その創成期
大正期、大川の木工業は、増大する需要に応えるべく、木工機械の導入が進められます。その背景には、好景気による職人不足もあげられます。榎津で問屋を営んでいた松本由太郎は、大正8年京都大学工学部武田教授の指導を受け、機械化を実践。 大正11年には工場を完成させました。導入された機械は「鋸・帯鋸・カッター・手押鉋・自動鉋・自動角のみ盤」などで、当時では画期的な生産力を発揮するものでした。
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昭和12年 (1935年) |
日中戦争により、家具の生産が中断される。 |
戦後の復興と全国市場への展開
伝統と技術が集積された大川の家具
昭和20年 (1945年) |
第二次世界大戦の敗戦による物資不足が木工関係者に打撃を与える。 |
昭和24年 (1949年) |
木工産地として復活し、家具づくりを再開。同年、国より「重要木工集団地」の指定を受ける。 また、この年、榎津久米之介の400年忌を期して「第1回大川木工祭(昭和29年から「木工まつり」となる)」が開催される。
戦後の発展の機械化 昭和20年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響で家をなくした人々からの需要が高まり、大川の木工業は急速な発展を遂げます。昭和24年(1949年)になると、国の「重要木工集団産地」の指定を受けます。 この頃からツキ板工場ができ、木材の乾燥機が導入され、機械化が進みます。大川では「カッター・手押しかんな・自動かんな・角のみ」の4種類の機械が多 く使用され、「一式」と呼ばれました。これらは、それまでの「のこぎり・かんな・のみ」での作業と比べると、約半分の工程での生産を可能にしました。
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昭和27年 (1952年) |
いかだ流し終わる。 夜明けダム建設の年、筑後川の上流の木材を運んだいかだ流しが終了し木材は鉄道輸送をへて大型トラックの輸送へと変わる。 |
昭和30年 (1955年) |
引き手なしたんす
「第1回全国優良家具展」と河内諒(工業デザイナー) 「第1回全国優良家具展」への出品により、全国の注目を集める。同年、「西日本物産展」で、河内諒デザインの和ダンスが最高賞を受賞。世に知られる大川調の「引き手なしたんす」である。
河内諒
河内諒(工業デザイナー) 戦後、大川家具の近代化に大きな功績を残した人物。それが工業デザイナーの河内諒です。当時、熊本産業試験場長をしていた河内氏は昭和26年より大川に 定住し、デザイン・塗装など、技術の指導や助言を行い、デザインのシンプル化と機能性を追求しました。また、当時の業界も「創美会」など研究グループを作 り、熱心な研究改善が続けられ、旧態の箱物を打破した近代的センスにあふれた大川家具への脱皮に向けて尽力。その結果生み出されたのが「引き手なしたん す」なのです。「引き手なしたんす」はその都会的なセンス漂うデザインで、大川を代表する家具として爆発的に名声を高めることになりました。
全国への進出 また、この時期、大川家具は全国的な進出を遂げました。昭和28年大阪で開催された「筑後物産展」では、改良された大川家具を発表。好評を得て、京阪神地 区への足掛かりがつくられました。それに続き、河内デザイナーが東京在住の友人の協力を得、「大倉商会」との契約を結ぶと同時に、地元にも「大倉会」を発 足、東京との取引が始まりました。昭和30年(1955年)には東京で開催された「第1回全国優良家具展」にも出品。モダンなデザインで全国に「家具の町 大川」の名を広め、今日の基礎を築きました。この市場開拓により、家具生産者によるまとまった取引グループ化による組織づくりが進みました。
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昭和38年 (1963年) |
家具メーカーで組織する「協同組合大川家具工業会」発足。
「大川家具」の躍進 昭和30年代後半、使用木材の変革と、並行して開発された木工機械の技術的進歩から、生産の近代化が進み、量産態勢が可能となり、大きな飛躍をとげた。大川地区を中心に1100の事業所が年間生産額70億円をあげ、高度成長の波にのり、一大産地を形成した。
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昭和46年 (1971年) |
展示会場を備えた「大川産業会館」が建設される。
「大川産業会館」 この会館の誕生は新作発表、販売の大拠点としてその後の大川家具の繁栄に大きく貢献してきました。現在では年4回の展示会の他、数多くの展示会が開催され、全国より約3000社に及ぶ販売商社が来場しています。
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昭和49年 (1974年) |
戦後のベビーブームによる、急激な結婚や新築のラッシュにより日本一の家具産地となる。 |
昭和62年 (1987年) |
ポルデノーネ市庁舎
イタリアの家具産地「ポルデノーネ市」と姉妹都市締結。 財団法人 大川総合インテリア産業振興センター設立。
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平成2年 (1990年) |
国際デザインフォーラム
「デザイン・イヤーin大川」の集大成イベント「国際デザイン・フォーラム」開催。世界に羽ばたくインテリアシティとして大きな一歩を踏み出す。
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現在の大川家具
伝統と技術が集積された大川の家具
現在 |
箱物(タンス類)、棚物(食器棚等)家具を中心とした日本最大の家具産地に成長し、高価格製品から普及製品まで、幅広い商品構成を特色とした産地を形成し ています。また今日の大川のインテリア産業は家具・建具の産地から、住宅関連産業も含めたトータルインテリア産業へと発展しています。 |